災害文化事例カタログ

イラストレーターico.のPLAYBACK震災

災害時に必要なことは何か?をお話しするためにきました。イラストレーターをしてます。ico.と書いてイコと読みます。

イラストレータがなぜ防災活動をしているかといいますと、12年前の東日本大震災の頃、私は名取市の閖上に実家がありまして、津波で被災しました。そのあと8年後には移住した福島でも2018年台風19号の水害で家を流されたという体験があり、2度、モノに頼れない暮らしを経験しました。この経験を活かそうと防災啓発活動を始めました。


東日本大震災を経験していないお子さんもいると思います。私の体験が次の災害の時に役立つかもしれません。今日は当時の記憶や体験をプレイバックします。


震災前、私の家は、ダッシュすれば1分で海という場所にありました。父は消防士をしていたので「地震が来たら津波が来るぞ」と家族会議でよく聞かされてきました。津波って何か当時は想像もできなかったのですが、防災意識は高めの家族でした。


3月11日当日ですが、ちょうど会社を辞めたタイミングであり、仙台市青葉区北四番丁にあった会社に退職届を提出するため午後1時に自宅を車で出発しました。

会社で書類のやり取りをしていた時に地震が起きました。古いビルの一階に事務所があり、大きく揺れて何もできず「このままだと潰れる」と感じたので建物の外に出ました。支店長がその場で解散命令を出したので建物にも入れず、私は街で独りぼっちになりました。


地震でどんな被害が出ているか想像できなかったので閖上に帰ろうと思ったのですが、停電で立体駐車場から車が出せなくなっていました。徒歩で帰ろうと考えましたが、当日は雪がちらつき、余震も何回も起きていましたので断念しました。発災直後から「まさか」の連続で、状況も刻々と変わりました。仙台駅では電車もバスもタクシーも動かず、人でごった返していました。たまたま防災ラジオを持った方がおり、沿岸に「大津波警報」が発令されたことを知りました。役立ったグッズといえば、やっぱりラジオです。わたしはそれで、閖上に帰っちゃいけないという判断ができました。

閖上には帰れないと分かった時に、避難する先を考え頑丈な建物を避難先に選びました。小学校や中学校が避難施設となっていましたが、人がいっぱいで断られたり、人が多すぎて椅子に座って一晩過ごしたりしていました。とりあえず名取を目指し、南に向かいました。五橋のホテル1階のファーストフード店をよく利用していたこともあり、そのホテルを目指しました。そのホテルでは、会議室に避難所を設置して、私たちを呼び寄せてくれました。その晩は乾パンと毛布を提供いただいて安全確保ができました。

1日目には、不足したものなどは特にありませんでした。安全確保をするまでに一番大事なのは命で、命があれば何回でもやり直せるんだなと感じました。

これが2日目になると、メガネが無くて困りました。私はメガネの度が人と全く違うので「貸すよ」と人に言われてもぜんぜん見えません。


今はこうやって防災ポーチを作って、メガネや最低限のグッズを持ち歩いています。

物や防災グッズに関してはあればいいけど、臨機応変に工夫する力が大事だと思いました。基本的に物はなくなるので、身一つで何とかすることが大事ということが分かった体験でした。


震災から一夜明けました。家族会議では、非常時には姉の家に集合しようと決めていたのでしたが、私は話半分でよく憶えていなく、仙台に一人ぽつんと残されてしまいました。そんな私が、どうやって家族と合流したかというと、長町あたりまで歩いた時に偶然、私を探しに来た家族の車に発見されたのでした。

私は幸運にも見つけてもらいましたが、皆さんは非常時にどうやって家族と集合するかをあらかじめ決めておいてくださいね。


私が大切だと思うのはやはり「家族会議」です。被災時、電話も携帯も繋がりませんでしたし、子供などはやはり話半分でしっかり覚えていないかもしれませんが、何回も繰り返せばイザという時に思い出されるのではないでしょうか。家族の中で合言葉のように繰り返せば、暗黙知と言いますか、何も言わなくても動ける子になると思います。