2023年1月14日
仙台の冬の風物詩、どんと祭の日でもある1月14日、仙台市の災害文化創造発信事業の一環として街歩きイベントが開催されました。
題して「せんだい・立直りのコンセキ巡り」。
普段歩いていても気づきにくい、街中に残る災害の痕跡を探しながら歩いてみようという企画です。
仙台の街には、東日本大震災の他にも、火事や水害、戦争など、さまざまな災厄から立ち直った痕跡が数多く残されています。今回の街歩きのキーワードは、「災害」「戦争」「祭り」。一見、関係のなさそうな3つのキーワードですが、どこでクロスするのでしょうか。
この企画は、達人と共に“ふらっ”と街を散歩し地域を学ぶ「仙台ふららん」との連携イベントです。ガイドをしてくれるのは、仙台の歴史を収集・出版する「風の時編集部」の佐藤正実さんと、同編集部の顧問でもあり仙台の歴史・文化に詳しい木村浩二さんです。
仙台ふららん https://www.sendai-furaran.com
風の時編集部 https://kaze-no-toki.hatenadiary.org
当日のレポートをお届けします!
スタート地点は、仙台駅に隣接する複合ビルAERです。
こちら、とても古い地図です。約400年前の正保年間に描かれた「奥州仙台城絵図」(所蔵/仙台市博物館)で、仙台城下に関しては30枚以上が残されていますが、なかでもこれは現存する一番古いもので1645年のものです。実際の大きさは3m以上あります。
この時代、幕府が同じ仕様で各藩の大名に地図を提出させました。それぞれの藩にどれほどの力があるかを把握するため、要は軍事用だったそうです。よく読むと、細かい文字でいっぱい書き込みがあります。城の周辺は特に詳細ですが、周辺は割とざっくりしています。
本日の講師、風の時編集部顧問で広報部長の木村浩二さんです。
「街歩きをする時は古地図を頭に浮かべ、今どこにいるか、東西南北のどっちの方を向いているかをイメージできるようにセルフナビを効かせてもらうとベストです。」
古地図の城下の東の端に位置しているこの場所には「深田」と記載されています。
名前のとおり水捌けの悪い場所で、たびたび大水が溢れ困っていた場所が、ここAERのある場所でした。
確かに、今でも駅周辺は大雨が降ると冠水しがちですね。
今日はAERから芭蕉の辻まで歩きます。
歩けば「なんとなく坂だな」と感じるのですが、これが極めて大切です。
仙台はひな壇地形を平らに均して作られているので、平坦なところがほとんどありません。数字で紹介しますと、城下の一番北の端の大崎八幡宮の鳥居の前は海抜60メートルもあります。今いるAERで約37メートル。広瀬橋の袂は15メートル。そんなことには気が付かないで暮らしていますね。
街に坂ができた原因は、まずは広瀬川が作り出した河岸段丘です。
そしてもう一つの大きな原因は、街を南北に走る活断層「長町-利府断層」です。この活断層は1万5~6千年前から活動が活発になり、2~3千年ごとに大きな地震をひき起こし、そのたびに地盤は2メートル前後もズレているそうです。榴岡の楽天モバイルパーク宮城付近や原町小学校から坂下交差点にかけても活断層による崖がありましたが、断層の崖の西側は凹むので、仙台駅から東側一帯の榴岡からAER(深田)周辺にかけてが低いんだそうです。
春先になったら、イーグルロード(宮城野通)の両脇にある流水路を見てみてください。水は仙台駅(深田)に向かって流れています。メルパルク側の方が高いのです。水の流れる先の町名は、谷地小路、そして清水小路。文字通り悪水を広瀬川に流す人工開削の水路がありました。 土地の形状は簡単には変えられないので、低い土地は災害に弱いということ、そしてそれには長町-利府断層が大きく関わっていることを憶えておいてください。
AERを出て、いざ出発
仙台駅前から花京院スクエア方面を見ると、やはり道が登っています。約5メートルの段丘の跡です。
名掛丁へやってきました。ここからはアーケードの中を歩きます。
このまちは御名懸組と呼ばれる侍たちの屋敷が並んだ場所です。「丁」と付いているのは、侍の町。町人の町は「町」の字がつきます。
真っ直ぐアーケードを抜け、道なりにどこまでも歩いていくと、仙台城の大手門に続く通りです。
四ツ谷用水のコンセキ
路面に化粧タイルで斜めに模様が走っています。ここは街の境目であり、四ツ谷用水の支流が流れていた場所です。ここからは新伝馬町、町人の町です。
伝馬役とは馬を常時用意し、情報や荷物を急いで送ったりする時のために藩から仰せつかった役目で、城下に三箇所あった伝馬町に加え、四番目に新しく追加された伝馬役なので名称が新伝馬町なのです。
ちなみにここから、天井の仕様も変わります。
古い絵図では、町人の町である新伝馬町には道の真ん中に用水が通っています。
侍の町は水路が道路脇にありました。そして二つの町の間には治安目的で木戸がありました。
こちらの店では、仙台門松が飾られています。仙台市博物館が音頭を取って再現しています。
仙台藩の頃の門松は、左右に松があり、頂上を竹竿で結ぶ写真の形が主流でした。
仙台空襲のコンセキ
桜井薬局の店舗入口には、今日の街歩きのテーマに関する大事な印がありました。
ここは、第二次世界大戦時、B29が123機で来襲し、焼夷弾を落とした爆撃中心点です。
木造家屋が連なっていた市街地を焼き払うため、風向きを考えてこの地点を割り出したようです。
昭和20年7月10日のことでした。壁のプレートには空襲のことが詳しく書かれています。
仙台空襲の被災マップです。赤いマークが空襲の目標とされた場所です。
赤く塗られているのは焼け野原になった市街地の範囲です。
この爆撃中心地の影響でしょうか。
イオン前のアーケード内には、47年前から平和七夕が飾られています。
「ノーモアヒロシマ」「ノーモアナガサキ」と書かれています。広島へ原爆が投下された日が、仙台七夕の初日に当たるからでもあります。
仙台七夕は、日本で一番絢爛豪華であると言われています。
なぜ、絢爛豪華なのかというと、これも天災と繋がっています。それは、1923年に起こった関東大震災です。
関東大震災の後には、日本全国を不況の嵐が襲い、仙台も同じく大不況に苦しみます。
そこで、沈んだ空気をなんとか盛り上げようと商店街で発案されたのが、昭和3年(1928年)の七夕飾りコンクールです。
このコンクールをきっかけに、年々、商店街同士が七夕飾りの豪華さを競い合うようになり、仙台の七夕がどんどん豪華になっていきます。
くす玉は、昭和10年ごろに発明されました。くす玉は仙台発祥の飾りです。
2011年には、東日本大震災犠牲者への鎮魂の気持ちを込めて、白い吹き流しが飾られました。
仙台の七夕は、祈りの祭りなのです。願いをかなえるため、不況を吹き飛ばすため、そして平和を祈り、犠牲者を追悼する。
時代が変わっても「より幸せになりますように」という願いは変わりません。
コロナ禍では、長く続いた仙台七夕も中止を余儀なくされましたが、翌年には「密」を避けるため丈の短い飾りで復活し、そして今年度には「下から見る新しいスタイルの七夕」が出現していました。
過去から今まで「災厄を乗り越えよう。工夫して良いものにしよう」という知恵を働かせているのです。
これも「災害文化」と言えるのではないでしょうか。
東二番丁通までやってきました。ここで気になるのは、道路の幅です。
ここの道幅は40メートル以上あります。でも江戸時代の道幅は5メートル位だったようです。
横断歩道の向こうの阿部の笹かまぼこの店舗は、かつては道路に面してなく、東二番丁の通りより数軒奥の位置だったそうです。
そして、大正初めの地図をみると仙台味噌の佐々重の店舗だった場所(現BEAMS)も、東二番丁通りから1軒下がったところに建っていました。
なので東二番丁通りは、中心線があまり変わっていないとすれば、東西両側に数軒分ずつ拡張されたようです。これは戦災の焼け野原から復興する時に拡張され、仙台の街のメイン通りの一つとなりました。
元は侍のまちだったので、今とは想像もつかないほど静かな街並みであったことが推測されます。
サンモール一番町の藤崎前に来ました。でも、元の通りの名前は東一番丁です。奥州街道から数えて、東に一番目の、侍の町という意味です。今は「東」が抜け、「丁」が商人町の「町」に変わってしまっていますね。
今日は、通りを東五番から、逆順で歩いてきました。
そして東六番は、今の仙台駅です。鉄道が通る時に東六番丁の通りは潰してしまいました。
その名残りは、東北本線が東に曲がった先にある「東六番丁小学校」な訳です。なるほど!
仙台は、奥州街道の東側に南北方向の10本の丁=東番丁街区。藩校養賢堂(現 宮城県庁)の北側に東西方向の10本の丁=北番丁街区があり、丁の表記ですからほとんど侍の屋敷街で、城下に3000戸以上が軒を連ねる、侍が非常に多い町だったんです。
侍の町がなぜ買い物の街になったのでしょう。
明治になり、侍は簡単に言えば「失職」しました。侍たちは大きな屋敷や敷地を保ち続けられなくなり、これではいけないと侍の中から商売を始める者も出てきました。
そして、今、多くの人が買い物を楽しめるアーケードが出現したわけです。時代の変化で失われた風情はありますが、ピンチをチャンスに繋げたことが東北一の商業都市を生んだとも言えます。これも災害文化ですね、木村さん、正実さん。
芭蕉の辻
本日の最終目的地の芭蕉の辻です。元は奥州街道の繁華街です。
そして、芭蕉の辻のランドマーク。龍神です。
芭蕉の辻の交差点に立つ4軒の商家の屋根には2つずつ、計8つの、1メートルもある大きな龍神の化粧瓦が載せられていました。
ちなみにこの化粧瓦と同じ形で作られたと推定される龍神は、南鍛冶町の東漸寺の境内に飾られていますよ。
辻に建つ4棟の二階建て瓦葺き建物は藩の命令で建てられ、商業の町仙台の象徴となったようです。
なぜ、龍なんでしょう。龍は水を吐く神様。もうお分かりですね。
昔は火事が何より恐ろしい災厄でした。芭蕉の辻付近も大火で焼け野原になったことがあります。
昔の人は火伏の神様である龍を祀ることで大火を防ごうとしたんですね。
ではクイズです。旧奥州街道で、いまの国分町通りは、この芭蕉の辻を境に車線が広くなります。
これは何故でしょう?これにも災害が大きく関わります。
これは大正8年3月の南町での大火事がきっかけになっています。
ちょうど芭蕉の辻のあたりが火元となった大火で、ここからウエスティンホテルの辺りまでが焼け野原になってしまいました。
風速35メートルもの強風に煽られた炎は消防では消しきれず、軍隊まで出動したそうです。
その後の復旧された奥州街道は、新市街では拡幅され、昭和3年から19年までの間は市電も通りました。
市電のために拡幅されたわけではないんですね。市電を利用した人にとってはある意味災い転じて…かもしれません。
と、いうことで仙台の街を災害と復興の目線で見てきました今回の旅も、一旦はお開きとなります。
考えてみますと、江戸末期には3000軒を超える侍の屋敷があった仙台の街は、大火も空襲もなければ秋田県角館市のように古い屋敷が並ぶ景観だったのでしょうか。 度重なる災厄にも負けず、青葉通のような都市計画の道路や鉄道の開通などを経て、仙台の街は姿を大きく変えて復興し、発展してきたんですね。
《おまけ》
今回の街歩きはAERから芭蕉の辻まで。本気で歩けば15分もかからないこの距離に、2時間!
それでも終盤には時間が足りなくなって、端折った場所がありました。
それが、藤崎の店舗をアーケード側から抜けて青葉通まで出てきた場所です。
藤崎はアーケード側から青葉通り側まで、約3メートルの高低差があります。これも河岸段丘を均して作った市街の痕跡。
実は東日本大震災の時もこの高低差が、市民の暮らしに大きく役に立ちました。
震災後は、電気、水道、ガスなどインフラは全て止まりましたが、唯一、機能したのが下水です。
日本の大都市は、ほぼ全て海洋に接しています。ですが、仙台の街は河岸段丘の上にできた全国でも大変珍しい街なので、震災後にも汚水は各家庭から自然流下して南蒲生の汚水処理場まで流れ着きました。
当時の浄化施設は津波で壊滅していたため、浄水場のゲートを手動で開門し、排水が街中に滞留しないよう緊急対応をしたのです。
これは都市工学の関係者には“奇跡”として伝わっているそうです。仙台の街は、偶然、いや、政宗公の先見の明が生きている災害を乗り越え得るポテンシャルが秘められた街なんですね。
結局、参加者は全員が藤崎前まで戻ってきて、たっぷりと解説してもらいました。
佐藤正実さん、木村浩二さん、貴重な話、ありがとうございました。
参加者のみなさんからは「ぜひ、第2弾を!」との嬉しい声をいただきました。
普段、何気なく通過している街並みに、過去の災厄を乗り越えてきた先人のコンセキと災害文化あり。
そんな驚きと歴史の積み重ねを感じた2時間のまち歩きでした。